Half-Awakening, Half-Sleeping

日日の雑記と創作物に関する長めの感想の物置

幾原邦彦『Re:cycle of the PENGUINDRUM 前編 君の列車は生存戦略』(2022)

☆☆☆★(初見)。2011年の『輪るピングドラム』の頃はまだ高校生。せっせとHDDに録画して本放送を見ていた。愚鈍な一物語消費者として、「アニメはこのように現実と接点を持ってもいいんだ」と驚いた思い出。なお、今のところ全話見れている唯一の幾原邦彦作品なのはお恥ずかしい限りだが…(ただし『ウテナ』劇場版の『アドゥレセンス黙示録』は、つい最近に見返したけどすごく好きな映画である)。

・この作品は総集編劇場版であり、大部分はテレビ版の引用だから、語りうることの8割くらいはテレビ版に属してしまうが、それも込みで言えば、高倉家の人間が「かばってケガをする」という行動の象徴性──自己犠牲心と同時に、他人の思惑のとばっちりを受けやすいという彼(ら)の人間性はかなり明白に描かれていたのだなと感心している。冠葉はすこしスタンドアローン的だが。
・ビジュアルや外部との接点等、目移りしそうな様々な要素を詰め込んだ作風だが、作品を根元で突き動かしているのは求める行為、探索する行為そのものであるとも気付く。その行為を焚きつけるものとしての偶発的なアクションの起こし方(帽子とトラック、“お魚くわえたどら猫”等)はかなり突飛だが様になっている。「ピングドラム」なるものも、前編の時点では差し詰めそれらのためのマクガフィンだ。
・2回睡眠薬を盛られる晶馬、2回顔に液体をぶち撒かれる苹果。
・映画は物語があるテロル以後についてのものであることを明白にした上でクライマックスを迎えるが、そうした編集方針において一番その人物像がスマートになったのは、おそらくストーキング娘・荻野目苹果ではなかろうか。彼女の「運命日記」への極端な執着は、普通なら脚本家がそこで“改心”させそうな出来事を2回ほど(陽毬の帽子をぶん投げて死なせかける、晶馬が車で轢かれるきっかけを作る)経て、その度緩和の予感を見せておいて、しばらくするとしれっとぶり返す。テレビアニメ版はそうした経緯に結構な話数が割かれた分、ネットの感想上では彼女にうんざりしてヘイトを溜める視聴者も一定数いた記憶があるが、映画はその妄執の起源の一端として件のテロのことがちょうど明らかになったところで一区切りとなるため、「呪われた運命の子ら」の一人であるという位置性はだいぶとシャープにはなっていると思った。あと、その他の妄執というのが、悪気がなくても、ショッキングな事が一度あったとしても取れないというのはある程度のリアリティとして、殊に2022年7月下旬のぼくにはすんなり腑に落ちる。自分の信仰で家庭が崩れ、その一人がその反動で凶行に走っても、教会へ迷惑をかけたことへの謝罪を口にするほかないという人間は普通にいるのである。それなりに。ちなみにぼくは主要人物では苹果ちゃんがいちばん好きです。ボブカット贔屓を抜きにしてもね。
・その関係で。この作品の地下鉄テロが地下鉄サリン事件を下敷きにしていることはかなり明白に示唆されているが、犯行グループの姿態と思想から宗教的記号をおおむね一掃する代わりに、苹果の「運命日記」をめぐる執着に宗教的な原理主義の色合いを帯びさせているところがセンスだなと。しかもその当の苹果は“被害者遺族”である。ここで起きているのは被害と加害の転倒なのだ。
・新規場面は幼い姿の高倉兄弟が地下の図書館に迷い込み、司書として現れた桃果(この子がキャラクターとしてTV版に出てきたかどうかもよく覚えてなかった、とほほ)の導きで、TV版の物語を書物として振り返り、本編でやり遂げたはずのことのやり残しがあるはずだから見つけて終わらせましょうという筋。語りの入れ子構造として一定以上の効果を得ているかどうかはおそらく後編を見てみないことにはわからないけども……