Half-Awakening, Half-Sleeping

日日の雑記と創作物に関する長めの感想の物置

三浦しをん『風が強く吹いている』(2008)

【2024/1/5】こういう時節柄に読んでおかないとずっと積んだままになると思って手に取ったのだった。なんというか、それどころじゃなかったのかもしれないが、それを抜きにしても今年の箱根駅伝はあまりちゃんと観れていない(正月2日目から仕事が入って実家から逆戻りしたのと、自宅のほうに日本テレビ系の放送局の電波がまともに入らない)。

2名を除いて長距離走はおろか陸上競技未経験である男子大学生の寄せ集め集団が、例外の2名のうち1名が密かに抱えていた箱根駅伝への出走という野望に巻き込まれる。門外漢からしても無茶な話であることは百も承知だろう。小説は、リレー形式で走ることそれ自体がもたらす精神的交歓を10人分描くことにひたすら専念するが、そこでは競技という営みそれ自体の「実力主義(勝てなきゃ意味がない)」に対するきわめてアンビバレントな対峙が常に求められている。

実力主義の前線でそれぞれ頓挫した主人公格の二人・走(かける)と灰二にとってのその相克に、陸上素人のメンバーたちが多彩に反応することで、物語は景気づく。そして競技中の彼等は、「一人であると同時に一人でない」という、もうひとつのアンビバレンスを爽やかに生きている。個人スポーツとチームスポーツの中間としての駅伝の魅力を取り上げた意義は小さくあるまい。

一方その個人の多彩さの裏で、彼等寛政大陸上部メンバーに対する様々な外圧の描写──特に東体大陸上部と、過去の経緯から走を憎む選手・榊の存在──は、主人公グループの正当性というべきものを反面的に補強するのみになっている。シード権争いの非情さを説話上抑止する目論見への理解ができるとしても、やはりこれは小説のノイズになってしまっているのではないか。六道大の藤岡のような、ある種超越的なライバルもいる分余計にそう感じる。

まあこれは、10人もいる駅伝メンバーの相互理解・襷つなぎがミソなのに、ライバルとのやりとりまでやっている暇は正直ない、という経済的な判断もあるだろうから、その評価は難しいところ。思ったけど藤岡は“僧侶”的なスキンヘッドのイメージからして、松本大洋『ピンポン』のドラゴンよね、完全に。それはともかく、この作家の筆致で、2人くらいの人物の関係をじっくり書けばすごくいいものになりそうだなと思ったら、同年発表の『まほろ駅前多田便利軒』がめっちゃそれっぽい。一度読んでみるべきだな。