Half-Awakening, Half-Sleeping

日日の雑記と創作物に関する長めの感想の物置

メル・ブルックス『スペースボール』(1987)

【2024/1/7】ザ・シネマで放送されていたものの録画。そもそもジョージ・ルーカススター・ウォーズ』自体が好きじゃないのにこういうのを見るわけだけど、まあ……表層系界隈ではメル・ブルックスの評価は高くない、デヴィッド&ジェリー・ザッカーやジェイ・ローチ、アダム・マッケイを評価する人はいても、メル・ブルックスについては一概に当たりがキツイのに釣られてちゃんと観てこなかったが、一見にしかずと思って。

冒頭は当然スクロール中間字幕と、巨大な悪の宇宙戦艦だが、中間字幕は特に文章内にジョークがあるくらいで、悪の宇宙戦艦に仕込まれたネタが「宇宙戦艦がやたら長いこと」なのか「戦艦の後部に自動車風のステッカーが貼られている」なのか、判然としない。後者の知識的な笑いの是非はさておくとしても、前者の遅延的な笑いは明らかに失敗というほかない。この手の“遅延”ネタではジェイ・ローチ『オースティン・パワーズ』という傑作がある。悪役の高笑いは、一番笑いの絶頂の時点で場面が変わり切断されてはじめて「それっぽく」なるわけで、突然笑いをやめるにせよ、ソフトランディングで少しずつ抑えるにしても、それ以後を描かれた途端高笑いは凋落を避け得ない。

この凋落というのは、いわゆる“スベり笑い”と同義で、若干のいたたまれなさも含まれる分、気持ちいいタイプの笑いではなく、拒絶感を覚える人も多い。『オースティン・パワーズ』にはそんなギャグもいくつかあって、明らかにリスキーな選択であるのだが、かえって作品にとっては美徳になっている。それはマイク・マイヤーズが演じる、60年代の英国サイケ文化を模した諜報員と彼の宿命のヴィランがともに、冷凍睡眠によって現代によみがえったせいで、凋落した文化の象徴と化している、それにおいて凋落と時間が結託しているという作品の基幹設定と無関係ではない……話がずれてしまった。

知識前提の笑いとしてのパロディ。パロディである以上、ある程度そこは観客側も織り込み済みではあるだろう。それはいいんだけど、物語まで知識前提では困る。SWシリーズが「千の顔を持つ英雄」をある程度参照したように、この映画も貴種流離譚などの物語類型をたどるが、あまりにもそれが安易であり、映画の身体にまで落とし込めていないというか、そもそもそれをする気がゼロなようにしか見えない。ビル・プルマンの出自が明らかになる経緯など、あまりにもお粗末。

メル・ブルックスという人はほかにも『ヤング・フランケンシュタイン』(怪奇映画)『ブレーキング・サドル』(西部劇)などでジャンル映画のパロディをやっているようだが、この『スペースボール』を観る限り、あまりアクションとしての喜劇映画の歴史観に無頓着っぽくて、そちらにもあまり期待は……

鳥山明『SAND LAND』(2000)

【2024/1/6】去年の同じ頃、大友克洋童夢』を購入した全集版で読み、そのあまりの西部劇性のために興奮してひっくり返った記憶がよみがえってきた。ぼくは成人してから罹りだした“連載漫画恐怖症”が年々酷くなっているせいで、長編漫画に手が伸びず(積んでるのに)、たいてい単巻完結漫画を求めてしまうのだが、それでも忌憚なく傑作といえるものは読めているし、いつまでもこわがらずに色んな漫画を読みたいんだけどそれはそれとして。

砂漠化し水が貴重となった世界は、世界として拡張されたモニュメント・バレーにほかならず、其処における手練れの荒くれ者と生き残る為に手を組む老“保安官”もいるし、蓮實かぶれのシネフィルにはおなじみの、“空になった水物入れは投げ捨てねばならない”というジャンル規範も息づいている。いよいよ、邦画におけるジャンル映画的神通力はみんな'70年代以降の漫画界に吸い取られてしまったという俗流論に、頷いてしまいたくもなる。

あと鳥山明のコマ割りは、既に『ドラゴンボール』(ぼくは通しで読んだことはありません)に関して不特定多数の識者が指摘しているように、視線の動きにきわめて敏感と言える部分があるが、ここでは比較的四角形のコマが多いためか、映画における(内側からの)切返しとクローズアップに、かなり近しいとも言えよう。そういえば映像化されてるんだった。先に読んでいたら、映画館でかかった時観に行ったものを……

それから、俯瞰の構図・見下ろすという行為にかかる物語的な意味とのシナジーも印象的。西部劇的な地平線というものも描かれてはいるけど、それよりはそれを産む俯瞰のほうが作品の本質に近い感覚があった。ここでの俯瞰には、ある種の(権)力が働いている。水利権を寡占する“王国”は飛行船を禁じているが、それは水源を空から見つけさせないためだ。あるいはベルゼブブが夜、高い岩の頂上で深呼吸のような姿態を取るのは戦闘用の「闇のパワーを吸収」するためだと、シバを見下ろして言う。

その一方で、シバとベルゼブブ一行の戦いは、地面から同じ地平線上の敵と戦うというかたちにほぼ終始する。とりわけ小型戦車における戦闘が、彼らにふさわしいスタイルとして描かれる。『ドラゴンボール』的な空中での競り合いは皆無で、跳躍も“高く(上方向へ)”では“遠く(横方向へ)”という趣。この様子では、空中を確保している王国軍との紛争は極端に不利では……とこちらをやきもきさせるのがうまい。危機と快楽の配分がきわめて絶妙で、読むプログラム・ピクチャーとしては最上級品のひとつと言ってもいい。

三浦しをん『風が強く吹いている』(2008)

【2024/1/5】こういう時節柄に読んでおかないとずっと積んだままになると思って手に取ったのだった。なんというか、それどころじゃなかったのかもしれないが、それを抜きにしても今年の箱根駅伝はあまりちゃんと観れていない(正月2日目から仕事が入って実家から逆戻りしたのと、自宅のほうに日本テレビ系の放送局の電波がまともに入らない)。

2名を除いて長距離走はおろか陸上競技未経験である男子大学生の寄せ集め集団が、例外の2名のうち1名が密かに抱えていた箱根駅伝への出走という野望に巻き込まれる。門外漢からしても無茶な話であることは百も承知だろう。小説は、リレー形式で走ることそれ自体がもたらす精神的交歓を10人分描くことにひたすら専念するが、そこでは競技という営みそれ自体の「実力主義(勝てなきゃ意味がない)」に対するきわめてアンビバレントな対峙が常に求められている。

実力主義の前線でそれぞれ頓挫した主人公格の二人・走(かける)と灰二にとってのその相克に、陸上素人のメンバーたちが多彩に反応することで、物語は景気づく。そして競技中の彼等は、「一人であると同時に一人でない」という、もうひとつのアンビバレンスを爽やかに生きている。個人スポーツとチームスポーツの中間としての駅伝の魅力を取り上げた意義は小さくあるまい。

一方その個人の多彩さの裏で、彼等寛政大陸上部メンバーに対する様々な外圧の描写──特に東体大陸上部と、過去の経緯から走を憎む選手・榊の存在──は、主人公グループの正当性というべきものを反面的に補強するのみになっている。シード権争いの非情さを説話上抑止する目論見への理解ができるとしても、やはりこれは小説のノイズになってしまっているのではないか。六道大の藤岡のような、ある種超越的なライバルもいる分余計にそう感じる。

まあこれは、10人もいる駅伝メンバーの相互理解・襷つなぎがミソなのに、ライバルとのやりとりまでやっている暇は正直ない、という経済的な判断もあるだろうから、その評価は難しいところ。思ったけど藤岡は“僧侶”的なスキンヘッドのイメージからして、松本大洋『ピンポン』のドラゴンよね、完全に。それはともかく、この作家の筆致で、2人くらいの人物の関係をじっくり書けばすごくいいものになりそうだなと思ったら、同年発表の『まほろ駅前多田便利軒』がめっちゃそれっぽい。一度読んでみるべきだな。

泥棒さんの話(20230406)

泥棒さんのイメージ。

自分の周りがゴミだらけだったり、雑然とものが詰め込まれたり、箪笥が開きっぱなしな状況に、昔から慣れてしまっている。……ぼくは子供の頃からそういう気質なのだ。逆にせわしなく自分の周りをコーディネートするのが生きがいなぼくの母からは、度々呆れられる。こういう時、決まって母は「泥棒さんが入ったみたいや」と言う。必ず泥棒が引き合いに出される。そして、必ず泥棒には「さん」という敬称が付く。母の口から出る「泥棒さん」という言葉には、なにか教育的なキャラクター性と同時に、牧歌の香りもする。泥棒さんは、雑然とした人間のみっともなさを軽々と風呂敷に包んで、われわれの留守を狙う存在なのだ。

ちなみに、ぼくの家族は一度だけ「泥棒さん」の実害を受けたことがある。もう15年以上前だが、母方の祖母宅に空き巣が入った。ディテールはもはや覚えてないし、犯人が特定・拘束されたかもわからない。どの程度盗まれたのかも知らない。ぼくの覚えている唯一のイメージは、捜査のために箪笥にまぶされた粉によって白々と照らされた「泥棒さん」の指紋だけである。この私的泥棒のイメージは、何かが盗まれ消えたことではなく、痕跡や目印が残っていること、とも言えようか。このイメージの強さに較べたら、ぼくが大学時代にやられた自動車泥棒なんて、単に、むかつく、で終わる話でしかない。ただ消えるだけではあまりにも芸がない。ちなみに盗まれた自転車は卒業から約2年後ぐらいに市の郊外で乗り捨てられているのを発見されたが、別の街に移っていたぼくには大した自転車でもないそれを引き取って遠く離れた現住所へ運ぶのが億劫だったため、警察署でそのまま処分を依頼した。

……さて、いまのぼくの部屋も、まるで泥棒さんが入ったみたいになっている。しかもこの泥棒は不遜にも、大量のスーパー惣菜の容器、丸められたティッシュpepsi BIG<生>ZEROのペットボトル、明治エッセルスーパーカップチョコクッキー味、山積みの文庫本を持ち込み、部屋中にぶちまけているではないか。なんという野郎だ。警察の手は借りず、ぼくの手で一度シメてやらなければならない。

なんでもいいから書くことにした(20230224)

最初、題の頭に「毎日」と付け加えようとしたが、それは御免蒙ると思ったのでやめた。それはおそらく不可能だし(毎日それができるような生活環境ではない)、毎日やればなにかの助けになるというようなものでもないし、それなのに「毎日」と付け加えることによる滑稽さが自分には疎ましい。ということで。

午前中は、昨日近くの書店に置いてあったのを衝動買いし、同日読みだした福田拓也の詩集「DEATHか裸」を一通り端まで読んでから外出し、図書館に借りていた数冊を返却した。図書館に着いた時点で借りたいというものも思い浮かばなかったので、そのまま引き返した。それから、「ウマ娘」の一番くじが今日から始まっているはずのセブンイレブン数軒に立ち寄ったが、いずれもディズニープリンセスのままだったので、すごすごと自室に引き戻った。ラストワン賞というものがある兼ね合い上、無下に引き上げることもできないのかもしれない。

午後、しばらく読書メーターで、何か示唆性のありそうな他のアカウントのレビューを眺めて、アンテナが立ったものを“読みたい本”に投げ込んでいった。こういった作業は、Twitterとかではいちいち書かないことなので、こちらには書いておこうと思った。どうしてだろうか、こういうときは少し(言うは易きだが、この“少し”の加減はけっこう難しい)意見の合わない人の感想をこそ見たくなる。

それから、ブラディ・コーベットの映画「シークレット・オブ・モンスター」(2015)をVODで観た。サルトルの短編「一指導者の幼年時代」にインスパイアを受けたものらしい。それを所収している新潮文庫版の短編集「水いらず」は1年ほど前に積んであるが積んだ場所が記憶にない。例によって、サルトル人文書にせよ小説にせよ読んだことはないけども、バタイユの「文学と悪」に触れて以来、いつまでも逃げ回っていられないと思っている。いつか観念して読みたいところだ。映画は、ジョン・カーペンターの「ハロウィン」の冒頭十数分(マイケル・マイヤーズの幼年時代)を延々とやっているような印象のもので、室内のライティングの妙な禁欲性を唯一のとっかかりとしてなんとか観終えた。ラストのカメラの動きはもはやヤケクソで、なにが効果的かという思考の大々的な放棄にしか見えなかった。カーウィンドウによりかかって外を眺めるロバート・パティンソンの姿に「コズモポリス」の彼を思い出した。

「わからない」としか言わない人間をやめるために記す?(20230223)

○それは「おしまい」の合図なのか。昨今のぼくにはどうも、まともに自分の快と不快さえ区別しそこなっている節がある。ぼくは不快なものを無理して自らの内にとどめているのか。快いものを天邪鬼にも汚らわしく思っているのか。こうした区別を迫られる時、疲れ切った、あるいは怠慢さに擦れた自分の精神はうやうやしく「わかりません」と答える。そう答えるしかないのである。

○ほんとうにわからないのか?

○自分のこと以外ならなんでもわかる、とヴィヨンは言ったらしいが、ぼくの場合「自分ってなんのこと?」などと言っている始末だ。これはひとえに、臆病さのなせる業だ。他人を断じることのリスクから逃げたと同時に、自分自身も失ったのだ。

○このあいだ高橋源一郎文学じゃないかもしれない症候群」を読んでいたら、著者は小川洋子いとうせいこうのそれぞれの小説(恥ずかしながらぼくはこの二人の小説をまだ読んだことが無い)における【わからない】【わかりたい】【わかった】というレベルに着目しており、2つ目を決して描かない小川と、2つ目にこだわったいとうを対峙させている。文章の結尾では、文学としての“純粋性”があるのは小川のほうと言いつつ、『だが、純粋とはなんだ?いったい、なんだ、それは?』(72P,単行本版)とハシゴを外す。「ジョン・レノン対火星人」が徹頭徹尾ハシゴを登り切ったと思いきやハシゴごと突き放される小説だったことを思えばこの高橋の姿勢はまさしく彼らしい妙技と言うほかない。ところで、引用されたいとうせいこうの小説の一文を読んでいて安易に想起されたのが、これまた今月に入って読み終えた「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」のこのくだり。

「真実を話してくれるだろうな?」レッシュは念を押した。「もし、おれがアンドロイドとわかっても、隠さずに知らせてくれるな?」

「もちろん」

「ほんとうに知りたいからなんだよ。どうしても知る必要があるんだ」(No.2284,Kindle版)

いまになってようやくこの小説を読んだのは、12月に読んだ野崎六助「北米探偵小説論」に触発されてのことで、上記の引用部を野崎も序論に引いて“圧倒的に感動”した(16P,インスプリクト版)部分と紹介しているのを先に目にしたおかげで自分もこの部分を切実なものとして受け止めえたところがあるというのが事実だ。他人のふんどしを借りているようで、すこし照れくさいんだが。

○他人のふんどしといえば、これまでのこのブログの種々の感想文にしても、そういうところはある。この気恥ずかしさを収めるために、これらを否認することは簡単だが、しかし。そもそも他人のふんどし抜きで、生きていけると思うのが間違いというところもあるのではないか。この世は巨大な「他者」のふんどしそのものではないのか。そして自分のふんどしは、もはやすでにバラバラにされていて、あちこちの他人にパッチワークされているともいえやしないか。その真相は──「わからない」と言おうとするその口を塞げ。ぼくだって少しくらい「わかりたい」んだよ。

青山真治『EUREKA ユリイカ』(2000)

☆☆☆☆☆(約7年半ぶり、2回目)。なにぶん217分と長尺の作品で、観返すだけの価値が必要以上にある映画だとは思いつつも長年観返してこなかった。今年3月に青山真治の訃報が飛び込んできた時点でも、手元にソフトを調達しておきながら、自分の移り気などもありどうも観ることがためらわれた。しかし、その後比較的近所でスクリーン上映されるとの報を聞きつけた時は、さすがに腹をくくって観に行かねばならない……と思い、そうしたわけで、市民ホールの大きな空間での再鑑賞に至る。以下はかなりとりとめのない記述で、人に読ませることをまるで考えていないが、この映画がどれだけ多くの要素を呼び込みえているか、ということへの思索と受け取ってもらえると幸いである。7年前の初見時はおのおののショットに「うわあ、フォードだ」「トリュフォーだ」などと当てはめて満足する、あまりにも安易なシネフィルしぐさにかまけてしまっていた。その反省として今回はできる限り、先行する映画作家の固有名詞は自重したい。

半年前に『Helpless』を観返した際に思ったこととも被るが、この監督の感度は、“いかにして不用意にカットを割らずに済ませるか”という部分において、最大の力を発揮している。ただし、最短経路だとか、経済性だとかといった要素はそこには絡んでこない(もちろん“ワンショットだけで撮られた映画こそが究極の映画である”といった思考とも無縁だ。不用意にカットを割らないということは、確かな必要に応じてカットを割ることである)。217分の長さを感じさせない作品であることとは別に、『EUREKA ユリイカ』には割と“遊び”の部分もあったなというのは、観返してみて思ったところだ。

そこが目立つのは、4人がバスで出発して(映画がロードムービーのジャンルに入って)からのシークエンスで、たとえばキャンプ場で夕飯を作っているところの斎藤陽一郎を追ったり宮崎将を追いながら横方向に左右するトラックショット、(サングラスをかけた4人が寝転ぶ例のショットに繋がる)牛の放牧地に立ち入り坂を上る4人を俯瞰で収めたショットの長さとかは、説話的に重要なものを提示している素振りをまるで見せないが、それはロードムービーへの接近によって許されているものというかは、motionを撮るという一貫した意志によって象られたものと思われる。

それがある限りは適正ランタイムというのは何分でもいいということだ。できるだけ短い手順で見せよと命じる経済性も、できるだけ長い時間を捉えようと志向する冗長性も、同じくmotionを目指すところにおいては、どちらが優れているかなんていうのはたいした問題じゃない。

加えてこの映画は、そのどちらかだけを選んでいないところでとてもゴージャスだ。たぶんこの手の長尺を正当化する最大の要素こそこのゴージャスさだと個人的には思う。冒頭のバスジャックの鎮圧に動く警官たちのくだりのスマートさは的確で、アクション映画をやるならテッテ的にアクション映画をやってやろうという気概に快哉を上げたくなる。ある種のシネフィル気質は裏目に出ることもあるが、ここでは最良の結果を出したと言ってもいいんじゃないか。

音と風。今回の上映会がboidによる『爆音映画祭』であることも働いたのかもしれないが、映画の契機としてきわめて豊饒な役割をそれらが占めていることをもまた、再鑑賞で痛感した。“音と風”と書いたが、“短く生成される音と継続する音”という風に言い換えてもよさそうだ。この辺の違いは宮崎将宮崎あおいの兄妹についての場面で特に顕著になっていた。兄妹邸前の広い敷地に彼らが突き立てた4本のパイプの立てる音や、邸内での就寝中ラジオをかけ続けているところなどを観るにつけ、兄妹は継続する音にすがりついているようにも見える。

一方で、短く生成される音で一番最初に観客が聞かされるものこそ“銃声”である(余韻のある“バーン”でなく“パン”と鳴る破裂音なのがミソ)。斎藤陽一郎が敷地で振るゴルフクラブのスイング音が宮崎将にフラッシュバックを起こさせるくだりの示唆性は言うまでもないだろうし、その宮崎将が直後そうした音を鳴らす場面がおおむね何かを物理的に振りかざす行動を捉えている点がこの映画に語りの線を一本増やしてみせている。

この線上に、夜の留置所に咳の音を響かせていた役所広司に突然もたらされる“拳で軽く叩く音”が入り込む。ここへ来て、音を生成するということが個人の存在証明というところにまで至るのだ。役所広司=沢井真と宮崎あおい=田村梢はこのやりとりによる他者の間断なき“発見”によって自身を維持しえたとも言えるし、一方の宮崎将=田村直樹や利重剛=素性不明のハイジャック犯の不幸は、音のやり取りを成立させられずにいることの不幸と言うことができる。

特に利重剛に至っては、そのきわめて暴力的な音の生成のほかにはこの世界にいかなる形でも存在を証明できないという恐ろしい状況に囚われており、“犯人、依然身元不明”という新聞見出しのテロップや、宮崎あおいが彼を終盤の貝投げにおいても“犯人のひと!”と呼ぶよりほかにないところには戦慄を禁じ得ない。

再現と伝授。役所広司は、土建屋の仕事を通してなにかを動かす者としての自分の再現にきっかけを見つけ、旅行を通してバス運転手としての自分の再現を試みる。またバス運転手の運動を宮崎将に教え、宮崎将もその運動をつかの間引き受ける。拳で軽く音を立てることほど間断ないものではなかったにしろ、コミュニケーションはちょっとだけながら発見される可能性を見せている。

身体。横たわる姿態は、恢復までの待機状態を示すこともあれば、恢復の困難さとその破綻を示しもするが、そんな風に言ってみる前に、ただ端的に“寝ている”だけなこともあると思い出さないといけない。人が横たわると、それくらいの要素は呼び込めるのだ。そもそも、青山真治がこの映画にシネマスコープのサイズを選んだのは、この横たわる姿態をどう捉えるかを考えた結果とも言えはしないか。