Half-Awakening, Half-Sleeping

日日の雑記と創作物に関する長めの感想の物置

泥棒さんの話(20230406)

泥棒さんのイメージ。

自分の周りがゴミだらけだったり、雑然とものが詰め込まれたり、箪笥が開きっぱなしな状況に、昔から慣れてしまっている。……ぼくは子供の頃からそういう気質なのだ。逆にせわしなく自分の周りをコーディネートするのが生きがいなぼくの母からは、度々呆れられる。こういう時、決まって母は「泥棒さんが入ったみたいや」と言う。必ず泥棒が引き合いに出される。そして、必ず泥棒には「さん」という敬称が付く。母の口から出る「泥棒さん」という言葉には、なにか教育的なキャラクター性と同時に、牧歌の香りもする。泥棒さんは、雑然とした人間のみっともなさを軽々と風呂敷に包んで、われわれの留守を狙う存在なのだ。

ちなみに、ぼくの家族は一度だけ「泥棒さん」の実害を受けたことがある。もう15年以上前だが、母方の祖母宅に空き巣が入った。ディテールはもはや覚えてないし、犯人が特定・拘束されたかもわからない。どの程度盗まれたのかも知らない。ぼくの覚えている唯一のイメージは、捜査のために箪笥にまぶされた粉によって白々と照らされた「泥棒さん」の指紋だけである。この私的泥棒のイメージは、何かが盗まれ消えたことではなく、痕跡や目印が残っていること、とも言えようか。このイメージの強さに較べたら、ぼくが大学時代にやられた自動車泥棒なんて、単に、むかつく、で終わる話でしかない。ただ消えるだけではあまりにも芸がない。ちなみに盗まれた自転車は卒業から約2年後ぐらいに市の郊外で乗り捨てられているのを発見されたが、別の街に移っていたぼくには大した自転車でもないそれを引き取って遠く離れた現住所へ運ぶのが億劫だったため、警察署でそのまま処分を依頼した。

……さて、いまのぼくの部屋も、まるで泥棒さんが入ったみたいになっている。しかもこの泥棒は不遜にも、大量のスーパー惣菜の容器、丸められたティッシュpepsi BIG<生>ZEROのペットボトル、明治エッセルスーパーカップチョコクッキー味、山積みの文庫本を持ち込み、部屋中にぶちまけているではないか。なんという野郎だ。警察の手は借りず、ぼくの手で一度シメてやらなければならない。