Half-Awakening, Half-Sleeping

日日の雑記と創作物に関する長めの感想の物置

なんでもいいから書くことにした(20230224)

最初、題の頭に「毎日」と付け加えようとしたが、それは御免蒙ると思ったのでやめた。それはおそらく不可能だし(毎日それができるような生活環境ではない)、毎日やればなにかの助けになるというようなものでもないし、それなのに「毎日」と付け加えることによる滑稽さが自分には疎ましい。ということで。

午前中は、昨日近くの書店に置いてあったのを衝動買いし、同日読みだした福田拓也の詩集「DEATHか裸」を一通り端まで読んでから外出し、図書館に借りていた数冊を返却した。図書館に着いた時点で借りたいというものも思い浮かばなかったので、そのまま引き返した。それから、「ウマ娘」の一番くじが今日から始まっているはずのセブンイレブン数軒に立ち寄ったが、いずれもディズニープリンセスのままだったので、すごすごと自室に引き戻った。ラストワン賞というものがある兼ね合い上、無下に引き上げることもできないのかもしれない。

午後、しばらく読書メーターで、何か示唆性のありそうな他のアカウントのレビューを眺めて、アンテナが立ったものを“読みたい本”に投げ込んでいった。こういった作業は、Twitterとかではいちいち書かないことなので、こちらには書いておこうと思った。どうしてだろうか、こういうときは少し(言うは易きだが、この“少し”の加減はけっこう難しい)意見の合わない人の感想をこそ見たくなる。

それから、ブラディ・コーベットの映画「シークレット・オブ・モンスター」(2015)をVODで観た。サルトルの短編「一指導者の幼年時代」にインスパイアを受けたものらしい。それを所収している新潮文庫版の短編集「水いらず」は1年ほど前に積んであるが積んだ場所が記憶にない。例によって、サルトル人文書にせよ小説にせよ読んだことはないけども、バタイユの「文学と悪」に触れて以来、いつまでも逃げ回っていられないと思っている。いつか観念して読みたいところだ。映画は、ジョン・カーペンターの「ハロウィン」の冒頭十数分(マイケル・マイヤーズの幼年時代)を延々とやっているような印象のもので、室内のライティングの妙な禁欲性を唯一のとっかかりとしてなんとか観終えた。ラストのカメラの動きはもはやヤケクソで、なにが効果的かという思考の大々的な放棄にしか見えなかった。カーウィンドウによりかかって外を眺めるロバート・パティンソンの姿に「コズモポリス」の彼を思い出した。