Half-Awakening, Half-Sleeping

日日の雑記と創作物に関する長めの感想の物置

「わからない」としか言わない人間をやめるために記す?(20230223)

○それは「おしまい」の合図なのか。昨今のぼくにはどうも、まともに自分の快と不快さえ区別しそこなっている節がある。ぼくは不快なものを無理して自らの内にとどめているのか。快いものを天邪鬼にも汚らわしく思っているのか。こうした区別を迫られる時、疲れ切った、あるいは怠慢さに擦れた自分の精神はうやうやしく「わかりません」と答える。そう答えるしかないのである。

○ほんとうにわからないのか?

○自分のこと以外ならなんでもわかる、とヴィヨンは言ったらしいが、ぼくの場合「自分ってなんのこと?」などと言っている始末だ。これはひとえに、臆病さのなせる業だ。他人を断じることのリスクから逃げたと同時に、自分自身も失ったのだ。

○このあいだ高橋源一郎文学じゃないかもしれない症候群」を読んでいたら、著者は小川洋子いとうせいこうのそれぞれの小説(恥ずかしながらぼくはこの二人の小説をまだ読んだことが無い)における【わからない】【わかりたい】【わかった】というレベルに着目しており、2つ目を決して描かない小川と、2つ目にこだわったいとうを対峙させている。文章の結尾では、文学としての“純粋性”があるのは小川のほうと言いつつ、『だが、純粋とはなんだ?いったい、なんだ、それは?』(72P,単行本版)とハシゴを外す。「ジョン・レノン対火星人」が徹頭徹尾ハシゴを登り切ったと思いきやハシゴごと突き放される小説だったことを思えばこの高橋の姿勢はまさしく彼らしい妙技と言うほかない。ところで、引用されたいとうせいこうの小説の一文を読んでいて安易に想起されたのが、これまた今月に入って読み終えた「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」のこのくだり。

「真実を話してくれるだろうな?」レッシュは念を押した。「もし、おれがアンドロイドとわかっても、隠さずに知らせてくれるな?」

「もちろん」

「ほんとうに知りたいからなんだよ。どうしても知る必要があるんだ」(No.2284,Kindle版)

いまになってようやくこの小説を読んだのは、12月に読んだ野崎六助「北米探偵小説論」に触発されてのことで、上記の引用部を野崎も序論に引いて“圧倒的に感動”した(16P,インスプリクト版)部分と紹介しているのを先に目にしたおかげで自分もこの部分を切実なものとして受け止めえたところがあるというのが事実だ。他人のふんどしを借りているようで、すこし照れくさいんだが。

○他人のふんどしといえば、これまでのこのブログの種々の感想文にしても、そういうところはある。この気恥ずかしさを収めるために、これらを否認することは簡単だが、しかし。そもそも他人のふんどし抜きで、生きていけると思うのが間違いというところもあるのではないか。この世は巨大な「他者」のふんどしそのものではないのか。そして自分のふんどしは、もはやすでにバラバラにされていて、あちこちの他人にパッチワークされているともいえやしないか。その真相は──「わからない」と言おうとするその口を塞げ。ぼくだって少しくらい「わかりたい」んだよ。