Half-Awakening, Half-Sleeping

日日の雑記と創作物に関する長めの感想の物置

青山真治『EUREKA ユリイカ』(2000)

☆☆☆☆☆(約7年半ぶり、2回目)。なにぶん217分と長尺の作品で、観返すだけの価値が必要以上にある映画だとは思いつつも長年観返してこなかった。今年3月に青山真治の訃報が飛び込んできた時点でも、手元にソフトを調達しておきながら、自分の移り気などもありどうも観ることがためらわれた。しかし、その後比較的近所でスクリーン上映されるとの報を聞きつけた時は、さすがに腹をくくって観に行かねばならない……と思い、そうしたわけで、市民ホールの大きな空間での再鑑賞に至る。以下はかなりとりとめのない記述で、人に読ませることをまるで考えていないが、この映画がどれだけ多くの要素を呼び込みえているか、ということへの思索と受け取ってもらえると幸いである。7年前の初見時はおのおののショットに「うわあ、フォードだ」「トリュフォーだ」などと当てはめて満足する、あまりにも安易なシネフィルしぐさにかまけてしまっていた。その反省として今回はできる限り、先行する映画作家の固有名詞は自重したい。

半年前に『Helpless』を観返した際に思ったこととも被るが、この監督の感度は、“いかにして不用意にカットを割らずに済ませるか”という部分において、最大の力を発揮している。ただし、最短経路だとか、経済性だとかといった要素はそこには絡んでこない(もちろん“ワンショットだけで撮られた映画こそが究極の映画である”といった思考とも無縁だ。不用意にカットを割らないということは、確かな必要に応じてカットを割ることである)。217分の長さを感じさせない作品であることとは別に、『EUREKA ユリイカ』には割と“遊び”の部分もあったなというのは、観返してみて思ったところだ。

そこが目立つのは、4人がバスで出発して(映画がロードムービーのジャンルに入って)からのシークエンスで、たとえばキャンプ場で夕飯を作っているところの斎藤陽一郎を追ったり宮崎将を追いながら横方向に左右するトラックショット、(サングラスをかけた4人が寝転ぶ例のショットに繋がる)牛の放牧地に立ち入り坂を上る4人を俯瞰で収めたショットの長さとかは、説話的に重要なものを提示している素振りをまるで見せないが、それはロードムービーへの接近によって許されているものというかは、motionを撮るという一貫した意志によって象られたものと思われる。

それがある限りは適正ランタイムというのは何分でもいいということだ。できるだけ短い手順で見せよと命じる経済性も、できるだけ長い時間を捉えようと志向する冗長性も、同じくmotionを目指すところにおいては、どちらが優れているかなんていうのはたいした問題じゃない。

加えてこの映画は、そのどちらかだけを選んでいないところでとてもゴージャスだ。たぶんこの手の長尺を正当化する最大の要素こそこのゴージャスさだと個人的には思う。冒頭のバスジャックの鎮圧に動く警官たちのくだりのスマートさは的確で、アクション映画をやるならテッテ的にアクション映画をやってやろうという気概に快哉を上げたくなる。ある種のシネフィル気質は裏目に出ることもあるが、ここでは最良の結果を出したと言ってもいいんじゃないか。

音と風。今回の上映会がboidによる『爆音映画祭』であることも働いたのかもしれないが、映画の契機としてきわめて豊饒な役割をそれらが占めていることをもまた、再鑑賞で痛感した。“音と風”と書いたが、“短く生成される音と継続する音”という風に言い換えてもよさそうだ。この辺の違いは宮崎将宮崎あおいの兄妹についての場面で特に顕著になっていた。兄妹邸前の広い敷地に彼らが突き立てた4本のパイプの立てる音や、邸内での就寝中ラジオをかけ続けているところなどを観るにつけ、兄妹は継続する音にすがりついているようにも見える。

一方で、短く生成される音で一番最初に観客が聞かされるものこそ“銃声”である(余韻のある“バーン”でなく“パン”と鳴る破裂音なのがミソ)。斎藤陽一郎が敷地で振るゴルフクラブのスイング音が宮崎将にフラッシュバックを起こさせるくだりの示唆性は言うまでもないだろうし、その宮崎将が直後そうした音を鳴らす場面がおおむね何かを物理的に振りかざす行動を捉えている点がこの映画に語りの線を一本増やしてみせている。

この線上に、夜の留置所に咳の音を響かせていた役所広司に突然もたらされる“拳で軽く叩く音”が入り込む。ここへ来て、音を生成するということが個人の存在証明というところにまで至るのだ。役所広司=沢井真と宮崎あおい=田村梢はこのやりとりによる他者の間断なき“発見”によって自身を維持しえたとも言えるし、一方の宮崎将=田村直樹や利重剛=素性不明のハイジャック犯の不幸は、音のやり取りを成立させられずにいることの不幸と言うことができる。

特に利重剛に至っては、そのきわめて暴力的な音の生成のほかにはこの世界にいかなる形でも存在を証明できないという恐ろしい状況に囚われており、“犯人、依然身元不明”という新聞見出しのテロップや、宮崎あおいが彼を終盤の貝投げにおいても“犯人のひと!”と呼ぶよりほかにないところには戦慄を禁じ得ない。

再現と伝授。役所広司は、土建屋の仕事を通してなにかを動かす者としての自分の再現にきっかけを見つけ、旅行を通してバス運転手としての自分の再現を試みる。またバス運転手の運動を宮崎将に教え、宮崎将もその運動をつかの間引き受ける。拳で軽く音を立てることほど間断ないものではなかったにしろ、コミュニケーションはちょっとだけながら発見される可能性を見せている。

身体。横たわる姿態は、恢復までの待機状態を示すこともあれば、恢復の困難さとその破綻を示しもするが、そんな風に言ってみる前に、ただ端的に“寝ている”だけなこともあると思い出さないといけない。人が横たわると、それくらいの要素は呼び込めるのだ。そもそも、青山真治がこの映画にシネマスコープのサイズを選んだのは、この横たわる姿態をどう捉えるかを考えた結果とも言えはしないか。