まえだくん『ぷにるはかわいいスライム(1)』(2022〜)
☆☆☆☆★(初読)。ポリビニルアルコールとホウ砂と水分の混合物が魂とかわいさを得るために必要だった「余計なもの」とは一体なんなのだろう。それは多分、永遠の謎である……例えば、創作物を絶対確実に面白いものとして書く方法とかと同様に。
■「余計なもの」とはなにか
この「余計なもの」のフレーズ自体は恐らく、『パワーパフ・ガールズ』からの引用であるが、『ぷにるはかわいいスライム』という漫画自体、それを構成する諸々の“原材料”の存在を推定することはかなり容易い。子供時代のファンタスティックな友達との関係の変遷という主題はセス・マクファーレン『テッド』に、全年齢向けの身体損壊描写は『ルーニー・トゥーンズ』やハンナ・バーバラ作品に、コタローを自分の体内に浮かせてしまう描写はところ天の助に紐付けられるし、ほかにもストーリーの型から明白なパロディまでいろいろと。
そもそも、この作品自体、作者が2019年に発表した読み切り漫画「かわいいぷにるはスライム」の続篇もしくはリブートだ。これは一巻の巻末に併録されているが、自分をかわいいと自認していて、実際それなりにかわいい見た目をしているぷにるが、しかし彼(女)がスライムであることの性質を隠さないために“かわいい”から逸脱したような状態を時に露呈させ、無意識の造り主にして無二の親友のコタローをドン引きさせる、というギャグ漫画としての生命線は、『かわいいスライム』でも引き継がれている。
この設定が、ラブコメディーなるジャンルに投げ込まれたことは、半分は児童層以外からの訴求も考慮された掲載媒体の性質ゆえの偶発的な誤配かもしれないが、読んでみるとそれが必然的な流れにも思わされる。ラブコメにいとも簡単に転用できる設定(ぷにるはスライムなので、自由な姿を取らせることができる上に、“かわいい”の求道者でもあるので、その選択の一つとして少女の姿態を取ることが不自然にならない)を元の『ぷにるはスライム』が持っていたという事実はきわめて面白い。
ところで、先程の「余計なもの」という点から考えたとき、そのラブコメの要素こそが「余計なもの」であるというよりは、ラブコメという触媒によって上記の諸々の“原材料”が「余計なもの」としての魔力を発揮し始めた、というほうが合っているんじゃあないか。こうした配剤の空恐ろしさがこの漫画にはある。
■スライムの身体は包括する
『ぷにる』の空恐ろしさはそれにとどまらない。ラブコメというジャンルに投げ込まれたスライムの身体が、その物理的性質のためにラブコメを逸脱させる(たとえば“エロコメ”や“悪趣味な漫画”に変貌させてしまいかねない)ようなものすら、平気で包括してしまい、軽やかさのなかに安住させてしまうことによる恐ろしさだ。
ラブコメに接続されることで、スライムの身体はその粘液としての性質を刺激され(ぷにるにベタベタされることで、体に粘液が付着したままになるのがコタローの悩みの種だ)、やにわにいかがわしさを獲得する。しかしそれは同時にいかがわしさからも逸脱する。ある体を触り、その体に押し返される感触を味わうことにかかるいかがわしさを、『ぷにる』を読む者は逆説的に痛感せざるを得ない。ぷにるの身体が、接触するというアクションをなんらかの形で透過させてしまうからだ。
触れる身体は押し返されるどころか果てしなく広がるスライムの身体に取り込まれてしまうし、抱き寄せたり下から受け止めたりしても慣性でちぎれてバラバラになってしまう。あと、おっぱいを触らせろというクソガキの要望を快諾するや否や、手刀で自分の巨乳を切り落として分け与えるところなんかは、どう受け止めればいいのだろう。このように描かれている性的欲望や暴力の描写は、スライムの身体によって(いちおうレーティング的見地では文句なく)安全なものになっているが、それは危険さを相殺するものではない。安全でありかつ危険なのである。
■スライムに触れる人々
しかしこの漫画の抜かりないところは、ぷにるのキャラクターと身体だけにそうしたものを依存しているわけでもないこと。この点でおもしろいのはコタローの恋慕する先輩の美少女・雲母麻美(きらら先輩)。彼女は俗に言う“ママ”系のキャラクターで、子供を見るやいなや過剰にあやそうとする困った人なのだが、ぷにるはどうも彼女には上記の身体の透過を行使できないようだ。彼女はある面ではスライムの身体の優越性を封じ込める脅威だが、それだけではなくそれによってトラブルを解決することもあり、その性質は一筋縄ではない。
また、コタローが警戒する“チャラ男”のような風体の同級生・南波は実際には直情径行で年不相応な“コロコロキッズ”だが、彼がぷにるたちを“ホビー”として見事に遊び倒すさまは、健全なものとしか言い難いのにどうにも倒錯している。こうしたアンビバレントさを、脇のキャラクターたちがしっかり担っているのは心強い。
ラブコメとしての妙に触れるにあたり、コタローのことも書いておこう。彼の中では、ぷにるは家族の特殊な一員ではあるが、かわいがる対象ではない。どころか彼女のせいで自分の生活が損なわれていると感じているし、基本的にはぷにるを「お前」と呼んで邪険に扱っている。一方でその邪険さはぷにるをなにか友人以上の存在としてみなしてしまうことへのたじろぎであることもある程度窺えるし、いざとなれば彼女をスライムではなく人間的なものとみなした上で、惻隠の情を覚えて行動に出ることもある。
屋上から突き落とされた異性じみた存在を助けようとする行動がサスペンスと同時にラブコメの文脈で成立してしまうのは、その存在がスライムだからであり、彼がぷにるをスライムであると十分理解している(恐らく、地面にぶつかっても大事ではないと予測される)にもかかわらず、それでも受け止めに行くというその事実をそのスライムの身体によって露呈させてしまうからだ。このように実現されている複雑さはすなわち、この作品の底の見えないふくよかさになっている。こわいなあまったく。
ジャック・ベッケル『アラブの盗賊』(1954)
☆☆☆☆(初見)。恥ずかしながらジャック・ベッケル初鑑賞。
切返しやアクション繋ぎのかかったショット群の呼吸と、合間に挿まれた持続するワンショットが両方とも粋ですばらしい。前者の例だと、序盤の踊る女奴隷たちとつまんなそうにそれを見ているアンリ・ベルヴェールの切り返しが何回かあるが、ひととおり照明が更新されていて丁寧。無論ヒロインのサミア・ガマールの表情や肉体へのそれも抜かりがない。後者だと、隊商たちを高所から捉えたカメラが右にゆっくりパン(冒頭あたりしか観れていない「現金に手を出すな」もパンで始まっているけどこの演出家の好みの動かし方なのだろうか)すると、斜面に盗賊団が待ち構えているところとか。そうしたサスペンスフルなものがあったと思えば、小銭をパンくずのように配置して門番をおびき寄せるくだりのファルスにもパンが用いられており、手数は多い。そもそも、中庭を取り囲んだイスラーム圏の邸宅のつくりがこのカメラの動きとよく合っているのが、終盤の宴会でのドタバタでよくわかる。
ほかに代表作と呼ばれるものがいくらでもあるこの作家の最初を、この映画で行こうという気になったのは、昨日読み終えた蓮實重彦『ショットとは何か』(2022)からの影響だと白状しておこう。蓮實はクライマックスで、フェルナンデルに導かれたアラブの人々が大群を成して宝物の洞窟のある渓谷を埋め尽くす「無言の存在感」(P23)を賞賛していた。人々のざわめきを一度鎮めたあと、フェルナンデルは一度だけうやうやしく神に伏拝し、人々も一度だけ伏拝する。そうしたらあとは“開けゴマ”をやって、ばっと窟へ流れ込むだけ。ここで変に演説をぶったりしなくてエライなあと思った。アリババの民衆への行動はもっぱら素朴な人道主義をなぞってはいるが、その表明は映画では演説よりもむしろ、民衆をしっかり画面に捉えてみせることにおいて輝いている。
バート・ケネディ『戦う幌馬車』(1967)
☆☆☆(初見)。バート・ケネディ監督作ははじめて。酒場のジョン・ウェインとカーク・ダグラスが宿敵ブルース・キャボットの来訪したとたんに乱闘騒ぎを起こして場を有耶無耶にする中盤のくだりとか、フィジカルな罠を張って鋼鉄の幌馬車に挑む終盤の見せ場とかがよい。ただまあ、この10~20年前くらいにウェインが出ていたいくつかの西部劇に較べるとやはり神通力には翳りがある。シネスコを持て余しているのか、カッティング・イン・アクションにあまりキレがない。序盤丸テーブルで会話するウェインとダグラス辺りのカッティングが設定ショットと顔のクローズアップの間で変にチャカついていて、よくもわるくも60年代後半という感じがする。
幾原邦彦『Re:cycle of the PENGUINDRUM 前編 君の列車は生存戦略』(2022)
☆☆☆★(初見)。2011年の『輪るピングドラム』の頃はまだ高校生。せっせとHDDに録画して本放送を見ていた。愚鈍な一物語消費者として、「アニメはこのように現実と接点を持ってもいいんだ」と驚いた思い出。なお、今のところ全話見れている唯一の幾原邦彦作品なのはお恥ずかしい限りだが…(ただし『ウテナ』劇場版の『アドゥレセンス黙示録』は、つい最近に見返したけどすごく好きな映画である)。
ピエル・パオロ・パゾリーニ『王女メディア』(1969)
☆☆☆☆(初見)。パゾリーニ、そんなに観ていないのだけどひとまずこれが暫定ベストだ。
カットが移る毎に起こっている出来事が唐突に更新されてゆくという、(演者の顔に近いクローズアップとその切り返し、そして遠景を捉えたロングショットという極端に近いか遠い構図を取りがちなゆえの)この監督のある種の持ち味が、全編にわたって生きている。
ケンタウロスとして登場していたはずのクレオンの養父が突然人間の姿になっている冒頭は、けだしその法則的な無法則さの象徴。その後つづく生け贄の場面では、その犠牲にされる若者が、無邪気な笑顔をこぼしたり、その笑顔が徐々に凍り付いていったり、また破顔一笑になり、と思えばNOと叫びながら磔を避けようと暴れたりする。こうした感情の亀裂は主要人物たち──メディアやクレオンたちの内面にさえ例外なく入ってゆく。
それは、神話(ケンタウロスの養父)・現実(人間の養父)・神話的現実あるいは現実的神話(ケンタウロスの養父を通訳する人間の養父)をあっちこっちに飛び交う快楽とも言えよう。